三面記事

青い目の日本人の謎を追え!


  編集部に大変なニュースが飛び込んできた。なんと四国に青い目の日本人がいるというのだ。両親のどちらかが白人なら理解もできるが、両親はいずれも日本人。こうした話に、新人記者の一人がすばやい反応を見せた。学生の頃の不思議な体験を語り始めたのである。隣のクラスに白人と日本人との混血かと思わせる女性がいた。色は白く、頭髪や目の色素も薄い。光の加減で瞳が青く見えることもあり、皆はハーフかクォーターだろうと噂していた。彼女の出身は四国だということだが、あまり親しくはなかったので詳しいことは知らなかった。しかし、知人の話によると先祖代々四国のある土地に住み、外国の血は混じっていない、とのこと。他にも四国には純粋な日本人の両親から青い目の子どもが生まれている、との情報も得たが、突然変異ということもあろう、とその時は別に気にかけることもなかったというのである。なんという偶然だろうか?四国にはなにかがある!歴史のウラに隠された謎があるのではないか?そこで、体験を話してくれた記者が四国に調査に出かけたが・・・・・

ドイツ人捕虜との混血児?
 歴史の教科書にも地方史にもあまり書かれていない事実。時代は第一次世界大戦中の1917年に遡る。大戦は1914年にオーストリア皇太子夫妻暗殺をきっかけに始まり、この戦乱はアジアにも飛び火した。当時、日本は日英同盟を締結しており、イギリスの敵国、ドイツに宣戦布告。大陸侵略の足がかりを確保したかった日本は、1898年からドイツが支配していた山東半島の青島に英軍とともに軍隊を送り込み、圧勝する。その時のドイツ人捕虜4600名が日本の各地にある12ヶ所の収容所に移送された。その後、6ケ所の新たな収容所が作られ、そのうちのひとつが、当時の徳島県板野郡の坂東捕虜収容所である。
 ここに移送されてきたドイツ人は1028名。資料によると、この収容所は「バンドー」と呼ばれ、やがて海外でも広く知られた模範収容所だったが、日本ではあまり知られていない。当時のドイツ人捕虜生活の概要は、「鳴門市ドイツ館」で展示されているという。
青い目の日本人――。もしや、ドイツ人と日本人の子孫ではないか?何かの理由で一目をはばかる子どもだったのではないか?バンドーにはその謎を解明する糸口があるかもしれない。そう思った記者は、徳島県鳴門市に飛んだ。

自由の気質溢れる収容所「バンドー」
 ドイツ館は昭和47年に設立されたが、老朽化が著しく手狭になったため、平成5年、現在の場所に移転したそうだ。幸運なことに、当初よりドイツ館設立に携わっていた人物とコンタクトが取れたため、詳しい話を聞くことができた。
「ドイツ人と日本人女性の混血児は現在、鎌倉にいらっしゃいますよ。ルビー・コーバーさんという60〜70歳ぐらいの女性で、ヨハネス・バートさんと千代さんのご長女です」
やはり混血児はいた。しかし、彼らは1920年にドイツ人捕虜が解放された後、正式に結婚している。ということは、コーバーさんの出生の秘密は明らかだ。謎でもなんでもないではないか。実際、解放後、63名のドイツ人が日本に残っている。そのうちの1人は洋菓子のユーハイムの創立者である。彼らが日本人女性と結婚をし、子孫を残していても不思議ではない。
 しかし、「バンドー」での捕虜生活は自由な気質が溢れていたという。捕虜たちと日本人女性との間に人目をはばかる子どもが誕生してもおかしくないのではないか。
彼らに自由を与え、「バンドー」を海外でも有名になるほど特異な存在にしたのは、当時の所長・松江豊寿のよるところが大きいようだ。彼の口癖は「ドイツ人も国のために戦ったのだから」であった。
   彼は1872年、会津藩士・松江久平の長男として会津若松市に生まれた。後に、日清・日露戦争に従軍したが、軍隊には官軍による会津藩差別もあり、苦々しい経験をしたという。当時、権力を持っていた官軍に対する反骨精神がドイツ人捕虜たちに手厚く接する動機となっていたようだ。彼は捕虜たちを軽蔑することはなく、命令を下すのではなく自主的に管理させていたそうだ。捕虜たちが外出する際には見張りがついていたが、それも大戦後は規制がゆるくなったという。
 ドイツ館の資料の中で興味深かったのは、地域住民とドイツ人との交流についてのものであった。当時、日本は戦争に勝ちはしていたが、世界では後進国。そこで、政府はドイツ人から酪農や製パン、洋菓子作りなどの技術の習得を奨励していたという。関東ではドイツ人捕虜による営団地下鉄の建設やブリジストンへの指導もあったらしく、経済や産業に貢献していた。もちろん、バンドーも例外ではない。捕虜の中には各分野の専門家がいたため、講演会や講習会が開かれていたという。それは収容所内にとどまらず、商工会議所や学校でも行われていた。地元民は彼らを「ドイツさん」と親しみを込めて呼び、彼らの交流は頻繁にあったようだ。現在でもその名残はあり、県内にはドイツ人捕虜の弟子が開業した「ドイツ軒」というパン屋や、ドイツ人から楽器を買い取った人物が開店した「仁木文化堂」という楽器店も残っている。
「実は、年末恒例の行事になっている第九の演奏を日本で初演したのがバンドーの捕虜たちだったんですよ」その楽団の名前は「徳島オーケストラ」。彼らに音楽を教わる地元民は多かったという。また、捕虜による日本の風景や日本人女性のスケッチも多く残っており、彼らが親日感情を抱いていたと推測できる。

封印された青い目の日本人の謎
 自由な生活、地元民との交流、そして親日感情。捕虜たちが日本人女性に恋愛感情を抱いたという可能性も否定できない。もしかすると、突然変異の如く誕生した青い目の日本人は、捕虜と地元民との間にできた私生児の子孫ではないか?
「それはわかりません。私どもはそういう噂はマユツバだと思ってますし、プライバシーにかかわることなので、探求したりはしませんから」
 残念ながら、青い目の日本人の謎についての明快な解答を得ることができなかった。ただし、大正7年に捕虜2名が50銭を見せ、通行中の人妻を誘ったという記録が残っており、謎の解答を匂わせている。しかし、これ以上追求するのはやめよう。言うに言われぬ事情は誰にでもあるものだ。記者は確固たる答えをつかめぬまま、タクシーに乗り込んだ。
 ドイツ館にやって来る時には気づかなかったが、この地域は柿の産地のようだ。周辺には柿の木畑が広がり、牧歌的な雰囲気を醸している。ドイツ人の文化の名残はどこにもない。強いて言えば、ドイツ館と大麻比古神社内にある石造りの『ドイツ橋』と『メガネ橋』ぐらいだ。記者は年配のドライバーにドイツ人捕虜について両親から聞いていないか、と質問してみたが、「ワシは親の顔は知らんからねぇ」という答えが返ってきただけであった。ドイツ人捕虜に関する資料は膨大にあるが、それ以上のものは何もない。生き証人もいない。青い目の日本人の謎は封印されているのである。

取材協力: 鳴門市ドイツ館
徳島県鳴門市大麻町桧字東山田55−2
TEL:088−689−0099

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