人骨で作られた阿弥陀如来が存在するという。なんとも奇妙な、不思議な話である。いったい誰が、どんな目的で作ったのか?さらに、どこの寺に本尊として置いてあるのか?次々と疑問が浮かぶ。「死んだら、仏さんになる」との言い伝えがあるが、まさしく死んで阿弥陀如来となり、信仰の対象となっているわけだ。故人にとって、これ以上の成仏はないだろう。普通、阿弥陀如来といえば、彫師が丹念に木刻して、時間を費やして木像で作るものだ。人骨で作るとは、聞いたことがない。そもそも阿弥陀如来とは、無量寿と訳し、無限に十方世界を照らす量りしれない光をもつ如来という意味である。そこで、平安時代に恵心僧都が「往生要集」を著し、如来を念ずれば極楽往生できると説いた。これが、浄土信仰の始まりである。さらに、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、時宗の一遍が登場して、末法思想と相まって浸透し、全国的に広まった。
人骨仏のある寺の名は、一心寺という。大阪の電気街として有名な「恵美須町駅」を下車して、徒歩7分。周辺には、藤原紀香主演の連続ドラマ「あなたの人生お運びします」の舞台になった通天閣がそびえ立ち、土地の人たちは新世界と呼ぶ。
一心寺は、一見して寺院には見えない。最初に驚かされるのは、山門こと仁王門。平成9年に完成した現代建築で、鉄骨トラスがガラス屋根を支えている。両脇にそびえ立つ仁王像は5メートル以上あり、重厚で力強い印象を受ける。門扉には文化勲章受章者の秋野不矩氏が原画を描いた天女4人のレリーフがある。山門両脇の基壇部は、黒御影石製で、野外ステージとして使われることもある。山門に鉄骨、青銅、黒御影石、と黒を基調にしたい素材を用いているのは、昭和20年に空襲で消失した旧山門が「黒門」と親しまれてきたためである。古いものをそのまま再建築するのでもなく、かといって切り捨てるでもなく、伝承を現代の意匠でよみがえらしたわけだ。
このように外観だけならレジャー施設に見えなくない。参拝者も大勢いる。しかし、観光というわけではなさそうだ。というのも、何かこう、しめやかな空気が漂っていて、浮ついた感じはまったくないからである。葬式直後の空気とでもいおうか、本当の意味で信仰のお寺であることを感じる。桜がきれいに咲いていても、京都や奈良の観光寺院とは全く違う。
大本堂は昭和41年に再建された十間四面の総檜造りで、ここだけは寺院らしい雰囲気だ。しかし、寺院らしいの意味は、少し意味が深い。骨壺を抱えた親族一同なのだろう、複数グループ待機していた。お祈りをしてもらう順番待ちだ。
文治元年(1185年)、浄土宗の宗祖法然上人が四天王寺の管長だった慈円に依頼され、四天王寺西門の坂のほとり、茶臼山近辺の地に作った草庵、これが始まりだった。ここには後白河法皇も訪ねてきたこともあるというのだから、由緒正しい寺である。
この草庵は、法然の名、源空から、源空庵という名前がつけられた。その後、大阪冬の陣までの約四百年間、戦乱のため、ほとんど記録らしいものが残っていなかった。しかし大阪冬の陣以降の資料では、一変して「一心寺」との寺名で登場する。
慶長のはじめ(1596年頃)三河より、一心寺の中興の祖、本誉存牟がやって来た。
徳川家康と深い関係を持ち、家康直筆の「坂松山」という山号の文字額を頂戴している。
大阪冬、夏の陣の時、家康は一心寺のすぐ南にある茶臼山に本陣を構えていた。当時の戦争では、寺は兵を寝泊まりさせ、炊き出しをさせるための場所として重要な存在だった。ちなみに寺がよく焼き討ちにあったのもそのためである。夏の陣で大阪方の名将、真田幸村は茶臼山へ奇襲攻撃をかけ、家康本陣を占領したものの、家康本人は取り逃がしてしまう。逆に幸村は家康の軍勢に囲まれ、一心寺の北の安居神社で討ち死する。この時、家康本人は一心寺で寝泊まりしていたから助かったという説もある。
このような歴史があり、江戸時代、格が高く扱われていた。しかし檀家を持たなかったので、文化・文政期(1800年はじめ)には相当荒れ、廃寺寸前にまで追い込まれていく。窮状を見かねた本山・知恩院より、真阿上人が再興を依頼され、なんとか建物を整備したのだが、莫大な借金ができてしまった。そのため真阿上人の亡後、葬式もできず、墓も自然石を置くのみだったとか。
しかし、その後を継いだ品誉顕秀上人は、経済感覚に優れた人物であった。 まず、復興資金を理由に、宗旨不問の納骨を認めることを本山に願い出た。
やむを得ず、暫定期間のみ認められたのだが、暫定期間とは便利な言葉で、いつまでか分からないまま、今日まで続いている。こうして、一心寺は檀家制度には乗らずに納骨を始めた。1851年のことである。
それから36年後の1887年、集められた白骨約5万人分の人骨をもとにお骨仏の第1号が造られた。以来10年に1度、お骨仏を造っている。しかし残念なことに約60年後の太平洋戦争中、それまでに造られた6体は空襲で焼けてしまった。そこで1947年、その6体の人骨仏の遺灰と、戦死者22万体の人骨からお骨仏の7体目が生まれた。現存する最古のお骨物であり、用いられたお骨の人数分も一番多いことになる。納骨堂の向かって一番右側奥のがそれだ。
今でも10年に1度、お骨仏を造っている。現在6体ある。次回の造立は平成19年4月だ。平成9年4月1日〜18年12月31日迄に納骨されたお骨を集め、13体目のお骨仏ができあがる。
本堂の横に小さなお堂が、昭和32年に再建された納骨堂だ。線香の煙がモウモウとたちこめる中、合掌する参拝者の視線の先に、お骨仏はある。彩色も鮮やかな新しい阿弥陀如来と、少しだけ煤けた阿弥陀如来が前列に並び、その後ろに、4体が鎮座する。古いものほど渋い光沢があるようで、線香の煙をかぶった年月を表すようにも感じる。1番古いものは真っ黒に近い。お骨仏は人骨を粉末状にすりつぶし、布海苔をまぜて、型に流し込み成形したものだ。表面は仕上げ処理をしてあるし、彩色もしてある。だからお骨の部分が直接見えるわけではない。
お骨仏への案内は念仏堂でする。ここは平成4年にできた受付専門の施設だ。ガラスブロックを多用したデザインで、堂内は外光であふれた清らかなイメージだ。そんな中、お骨仏への申し込みをされる遺族の方々で長蛇の列ができている。参考までに納骨冥加料を記しておく。
白骨(のど仏)
一金 壱万円
一金 壱万五千円
一金 弐万円
胴骨
一金 壱万五千円
一金 弐万円
一金 参万円 |
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お骨仏一体につき何万体分の人骨とはいうものの、全身の骨を用いるわけではない。納骨されたのど仏や胴骨以外はお墓に埋葬される。納骨に関する期限はないので、四十九日や一周忌などの法要に関わらず、いつ持ち込んでも構わないそうだ。例えば、墓から掘り出した骨でも受け付けてくれる。ただし、天日干しなどをして、よく乾燥させる必要があるとか。また、土葬されていたものの場合は、火葬してからになる。
人骨でできた阿弥陀如来は、いうなれば、現代版無縁仏かもしれない。しかし、そんな言葉が持つ怪奇趣味とは裏腹に妖気な雰囲気はまったくない。参拝者は非常に慎ましやかに手を合わせている。
「ほら、あれがおじいちゃんやで。」
「わしも死んだら仏さんになるんや。」
大切なのは残され家族の気持ちであったり、死を見据えた老年期の気概であったりするのだろう。大阪は古くから商人の街であった。各地から大勢の人々が移り住んできた。そんな故郷を後にした、つまり菩提寺を持たない人々が、宗派を問わずに先祖供養ができる場所として昔から機能してきたのだろう。
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