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かつては地上の楽園と言われた愛宕鉄道の頂上駅。しかし約60年の歳月は、すべての遺構を緑の中に埋没させるほどだ。
古代の神殿のようにも見える廃墟は、人による再開発を頑なに拒んでいるようにも見える。

「愛宕山もケーブルにより、地上の楽園になった」
 昭和4年、京都の愛宕山にケーブル線が開通したとき、京都日日新聞はそう報じた。愛宕山は、古来から火伏せの神を祭る霊山として、崇められていた。まだ科学の力が全能だと信じられていた時代の新聞報道だ。完成したケーブル線は、「日本一」とも「東洋一」とも賞賛された。
 しかし、わずか15年でケーブルは廃線。今でも当時のケーブル線の跡とトンネル、山頂近くの終着駅は、愛宕山の自然に埋もれたままだという。
 実際、廃線跡を歩くと驚かされる。コンクリート製の基礎を突き破った木々が生い茂り、倒木が散乱し、腐葉土と落ち葉が地層のように重なりあっている。
 6つあるトンネルの内、麓から3番目と5番目のトンネルは、崩落していて先に進めない。他のトンネルも、いつそうなるかわからない危険な状態だ。
 3番目のトンネルは山を越えて進むことができるが、5番目のトンネルは崖のようになっていて、探索をあきらめるしかなかった。
 仕方なく、愛宕山の登山道から終着駅を目指す。2時間ほど歩き、途中の分かれ道に入った。草の中を掻き分けると、廃墟となった終着駅が現れる。
 駅は地上2階、地下1階の建物だ。壁は前面にわたってただれている。窓にはガラスはなく、窓枠を掴むと、針金のように簡単にひねることができた。内部の床には土が降り積もり、雑草や木が生い茂っている。まるで庭園のようだ。上を見ると、鍾乳洞の氷柱のようなものが、天井いっぱいに垂れ下がっている。
 駅の中には、レストランや土産物屋もあったと聞いたが、当時の様子を連想させるものは何一つない。
 地下は、電車の発着場のようだ。ケーブル線とつながる出入り口があった。当時、ケーブルの車両は84人乗りで、スイス製の最新式だったという。70年間、廃墟はポッカリと口を開け、来るはずもない車両を待ち続けているのだ。
「一冬で1年の収入を稼いだもんや」
 当時のことを知る地元の老人は、そう教えてくれた。
 今の姿からは考えられないことだが、愛宕山山頂にはホテルや遊園地はおろか、スキー場まであったという。京都では当時、比叡山と並ぶ一大レジャー地だった。
 その老人も、二つに割った竹の先を火で熱して曲げスキー板を作り、レジャーを楽しんだという。
 だが、そうなる前の愛宕山は、全国から参拝者が訪れる有名な霊山ではあったが、容易に登れる山ではなかった。今でも、山には猪や熊も出るほどだ。
 特に地元の子ども達は、小学生ぐらいの年になると壷を下げた天秤棒を担ぎ、汗を流しながら頂上の神社まで荷物を運び、家の生活を助けたという。
 地元に今も残る地名に「壷割りの坂」というものがある。あまりにも坂が急なため、担いだ天秤棒の平行を失い、壺を落として割ってしまうことからついた名前だ。遊園地やスキー場があるレジャー地とは、正反対の山だった。
 そんな愛宕山のケーブルも終わりの時を迎える。昭和18年、太平洋戦争激化により、「不要不急鉄道」として廃止が決まったのだ。昭和19年にはレールなどが外され、軍需物資へと変わった。
 戦後、何回かケーブル線復興のために、スポンサー企業の役員が愛宕山に足を運んだという。しかし、今にいたるまでケーブルは復興されず、70年以上放置されたままだ。
 廃線の理由は、戦争による資材提供という人為的なものである。しかし、廃墟を見る限り、それが原因とは思えなかった。
 古来から続く霊山にケーブルを通し、レジャー地へと変えた人間。当時の安易な科学信仰は、自然を人間の手でコントロールするべきだと決めつけていた。
 愛宕山は、そんな人間たちに神罰を与えたのではないか。今も残る廃墟は、そんな霊山の怒りをなだめる生贄のようにも見える。
 もちろん、そんなはずはないのだろう。しかし、緑の中に佇む廃墟は、再び人間達の手で「地上の楽園」にされることを恐れているように見えた。

愛宕
鉄道写真集
   
-文・カリフォルニア大統領-